◆5/18(日)近況報告◆

もう少しでオンラインサロンが完成します!

名付けて

「ジャズシンガー加藤咲希のKOGUMA CLUB」

です🐻✨

LINEで全て完結する仕様にしたので、サロンメンバーになることをご検討くださっている方でLINEアプリ未登録の方は、ぜひLINEアプリを入れてお待ちくださいね❤︎ 完成したら、オンラインサロン用の新たな公式LINEアカウントのアドレスをお知らせするので、そこから登録していただく形になります。

今までの公式LINEが使えなくなるわけではなくて、オンラインサロン用の公式LINEアカウントと、オンラインサロンとは関係ない普通の加藤咲希公式LINEアカウント、二つが並行して存在することになりますので、お間違えなきようお願いします🙏

完成に合わせて、今までFacebook、Instagram、公式サイト、その他note等にランダムに上げていたブログやエッセイは、今後は全てオンラインサロンの中に集約させることにします。

オンラインサロン限定のコンテンツはこんな感じ。

◇スレッドでのコミュニケーション

◇週1回のロングエッセイ兼ブログ(5000字以上)と写真

◇毎晩のおやすみボイスメッセージ(3-5分くらい)22時にアップ予定

◇月4回以上の生配信

時間帯や曜日はフレキシブル

◇不定期で収録動画もアップ

早く完成しないかな〜と、業者さんとやりとりしながらワクワク、私自身とても楽しみにしています。

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4月後半〜5月前半は、オンラインサロンの構築、楽曲『Overflow』のMV制作に関するやりとり(今回もヤシマロパさん作の名作です!泣いちゃう!)、友人が英語で書いた映画の脚本の編集のお手伝い、英語レッスンと、毎日何かしらの作業をしていました。今まではあまり時間がなくてできなかった大好きな読書や映画鑑賞も自分に許しています。

でも何せ今は「がんばらない」を目標としていて、また散歩や自炊、早寝早起きも日課としているので、1日にできることが極端に少なく、丁寧に生きると、やるべきこと以外をする時間は全くないのだなあと実感しています。そして今はそれでよいのだと確信してもいます。なので、殆ど全てのお誘いをお断りして、狭い世界の中で生きているわけですが、また外の世界に出て大丈夫と私自身が思えるようになるまで、今はまさに充電期間なので、いつかまたステージで歌える日まで、私のことを忘れずにいてもらえたら嬉しいです。

オンラインサロンでの週1ロングエッセイ兼ブログはどういう内容になるのか、という一例を以下に書いてみました。そしてこういうのは出オチ?というのでしょうか、あらためて以下に5000字を貼り付けてみたら、思ったよりもヴォリューミーだったので、週によっては3000〜4000字くらいのときもあるかもしれません〜。でももう業者さんにランディングページのサロン紹介文は提出しちゃったので(自分で直せない仕様)、すぐにはサロン紹介文の方は直せず。もしエッセイ兼ブログは必ず5000字以上じゃないとイヤっ!という方がいらしたらお気をつけて…でも倒れたりしない限り必ず毎週書かせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします!

以下、5000字とはこんなヴォリューム感だ!

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5月某日、ショパンコンクールの予備予選の通過者が発表された。予備予選は寝る前になんとなくランダムに見ていただけなので、170人くらいいる中で合計10人くらいしか聴けていないけれど、一聴して好きになったマレーシア出身のVincent Ongが本大会進出となっていて嬉しかった。私にはテクニカルなことや何が典型的なあり方なのかはわからないけれど、コンクールの予備予選なことを忘れてただうっとり聴き入ってしまった。発表前は180人くらいだった彼のYouTube登録者が今では220人に増えている。でもこんなに凄いピアノなのに220人!コンクールが進むにつれて露出が増えてファンももっと増えるのではないかと思う。YouTube上の他の演奏動画もとても素敵だった。恋には恋が出現し、躍動には躍動が出現し、青年の憂いには青年の憂いが出現し、きらきらのピアノには目に見えないエネルギーがたくさん乗っている。世界には身悶えするほど美しいものがたくさんある。

5月某日、カート・ヴォネガット著『タイタンの妖女』読了。SF小説というのは、何がどこまで可能な世界での出来事なのか、つまり時代背景や科学技術の舞台設定、世界観の構築から始めないといけないので、優れたSF小説はある種唯一無二の宗教性を帯びているのだと思う。アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』しかり、奥泉光『ビビビ・ビ・バップ』しかり、読後しばらくはどう考えてもこの世界こそが真実であり、その中を私たちは生きているのだ、としか思えなくなる。どう考えても理に適っている。じゃあ『タイタンの妖女』の世界も、『幼年期の終り』の世界も『ビビビ・ビ・バップ』の世界も真実なのだとしたら、世の中真実だらけで逆にわけがわからない、それを平行宇宙と呼ぶのかもしれない。

機械は友情が何かを知りたがり死をもってそのことを知り、証明する。女は自分を凌辱した男を死の間際に赦し(たぶんフェミニストたちが怒らないあり方で。私の中にもその血は流れているはずだから)、物語を紡ぐ。男は全てを知ってしまった知性の苦しみの中で、それでもできる限りよきことをしようとする。また別の男は自分以外の誰かの意図によって翻弄され切った人生の終わりに、愛を発見する。人々は自らの愚かさを悔いあらため、おそろしいほどにとことん平等であろうとするようになった。悲しく、面白く、優しい物語。「わたしを利用してくれてありがとう」。果たして、誰にも何にも利用されない、何もかも自分の意図どおりで、全てから自由な生があるとしたら、その生は楽しいのだろうか。いや、そもそもそういう生には意志が生まれ得るのか?

5月某日、あらためてビリー・ワイルダー監督『お熱いのがお好き』鑑賞。マリリン・モンローの可愛いこと!やはりずば抜けている。こんなに可愛く美しくセンシュアルな女優を見たことがない。ブリジット・バルドーが彼女の前ではコンプレックスを抱くほどだったという逸話もさもありなんと頷ける。あの世界でいちばん可愛い顔と、声と、胸と、臀部。あんなに美しかったら、あれじゃ殺されちゃうわねジャンニ(by SPANK HAPPY)。演技力とか、そういう次元の話でない、可愛すぎて、ヴィジュアルの存在感が凄すぎて、ただそこにいるだけで成り立つ圧倒的な存在感。凝縮された女性性のイデア。

ちなみにブリトニー・スピアーズの顔は彼女へのオマージュであると思う。かの有名な楽曲”I Wanna Be Loved By You”はこの作品から。彼女の甘えるようなささやき声をカリカチュアライズして模倣するケースも多くあるけれど、本人はウィスパーでなく割としっかり歌っているという新鮮な驚き。

5月某日、『アナイス・ニンの日記』の訳者あとがきを読んで、アナイス・ニンがどうやら嘘つき扱いされているかもしれないことを知る。生前出版されていた編集版と、死後に出版された無修正版の中のいくつかの事実が違っているからとのこと。自立した女性のように見せていたけれど本当は夫の金銭的な庇護の下にあったらしいとか、恋愛関係のいくつかの相違とか、そのようなこと。死後に出版された無修正版の出版許可を生前の本人が出していたのかどうかわからないけれど、もし出していなかったのであれば、版権を受け継いだ者が本人が望んだわけではない形で出版して、その結果嘘つき扱いされていたら嫌だなあと思った。いや、たとえ本人がOKを出していたとしても、どちらにしろ「真偽」は批判対象にはならない気がする。

そもそも「日記文学」に客観的事実を求めること自体が難しいことは、作家自身が自覚していると思う。ドキュメンタリー映画やノンフィクションのルポルタージュのようなものも同じことで、編集次第でいくらでも作者の意図を反映させることができるという意味では、「客観的事実」を描いたものなどただの一つも、どこにも存在しない。量子論的観点からすると、観測されたものが存在する、観測されないものは存在しない、ということらしいので、そもそも「客観的事実」はプラトンの言うイデアのようなものなのか、なんだかあるらしいと憧れたり、存在を感じることはできても、完全に認識することはできないのかもしれない。またその物語がその作家から出てきた、という事実において全てはノンフィクションであり、逆に事実を徹底的に描写してノンフィクションに限りなく近づこうとすることはできても、人為が為すことである以上、何もかも客観的事実ではなく常に全てフィクションということになる。もちろん、こう見せたい、という意識下の、あるいは無意識下の意図もあるだろう。それが悪いことだとは思わない。

日記文学の作家に良心があるとしたら、自分が書いた世界観を事実そうであったかのように生き切ることなのではないだろうか。事実の真偽ではない、そういう物語を世に出すことが私にとっては美しく思える、正しいと感じられる行為だった、ということ。もっとも常に自分の良心に従うようないい子ちゃんの行動が面白いかどうかはわからないけれど。物語の世界では裏切られることもまた楽しからずや。

5月某日、何かを失って初めて、それがあることが当たりまえではなかったのだと知る。衝撃で魂が肉体からずれてしまったような感覚に陥る。それがあることが当たりまえだと思うほど、私は無垢で傲慢だった。三日三晩泣き続けて目が眼鏡を取ったときののび太くんみたいになって、それがあったら幸福という思考回路自体が今の私には役に立たないことに気づく。幸せになることはできない、既に幸せなことに気づくことしかできない。瞬間の幸福に集中することを思い出すのだ。人生が夢みたい、と告げると、友人は、そうだね、と同意した。自らへの処方薬として海に行って足を浸したりした。ちょっとずつ魂が戻ってきたような気がした。

5月某日、Lilla Flicka名義の楽曲『Overflow』のMVが完成した。『I’m An Instrument』『大人なんだから』に続いて今回もアニメーション作家のヤシマロパさんにお願いしていた。当初は3月のJZ Bratでの加藤咲希×Lilla Flickaのジョイントライブに合わせて公開の予定だったけれど、ヤシマロパさんの体調不良により、完成が延びた。ヤシマロパさんはとても申し訳なさそうにしていたけれど、同じく体調不良歌手としては人ごととは思えず、もちろん完成は早い方が嬉しいけれど、でも体を壊してまで守らないといけないような締切ではないので、いつでも可能なときに完成させてもらえれば大丈夫、と伝えてあった。そもそも誰かが大きく心や体を壊してまで守らないといけない締切、やらないといけない仕事なんて存在するのだろうか。私は存在しないと思う。どんな大きな仕事でも。まずはそれぞれが自分の健康を守ることがとても大事。

誤解を恐れながらいうと(坂爪圭吾節)、凄くポジティブな意味で、あなたの代わりはいくらでもいる。心や体を壊すまえに、逃げていい。いやいや、仕事しないと食べていけないし、という反論には、いやいや、日本には生活保護があるし、そこに辿り着くまえの失業保険や(ジャズミュージシャンにはないけど…)、公的な住宅なんとかサポートとか、無利子の融資もあるよ、と思う。誰かが困ったときに所属しているコミュニティに本気でサポートを求めて、それが与えられないことがあるのだとしたら、そのような世界に私は生きていたくない。私の思想が幼い倫理的潔癖症の理想論だとしても、まず想像できないことは始まらない。私が私の理想の世界を生きることからしか、理想の世界は始まらない。そう信じて今日も水を浄化し、花を植える。水は日々汚れていくので、日々の浄化を必要とする。

かくして出来上がったMVは作品として最高で、やはりヤシマロパさんの才能は素晴らしいと思う。ただYouTube等にアップロードするだけではもったいなく思えてしまい、でも作曲のトオイダイスケさんも作詞の加藤咲希も今現在ライブ活動を休止していることもあるし、楽曲のリリース自体からは半年弱開いてしまったので、どのようにプロモーションをしていったらよいのか、考えあぐねている。いつかやってくるであろう機を待つべきが、もったいぶらずに通常どおりに自分でできる範囲で細々とプロモーションしていくか。決定打のないまま、言葉と音楽と映像の結晶が手元にある。

5月某日、大学受験生への英語レッスン。中堅以上の大学入試問題となると、まず受験生が長文全部に目を通す時間はない。まず段落ごとにざっと読んでだいたいの内容を把握する。もし細部が設問になっていたら初めて細部の確認をするぐらいでないと間に合わない。逆に言えば、論説文はそれで読み解くことができるように書かれている。英語圏の人たちは学生の頃に、段落の頭に段落の内容を集約したトピックセンテンスと呼ばれる文を書くこと、その後同じ段落に具体例や説明を書くこと、段落ごとに内容を分けること、を徹底的にトレーニングさせられるので、論説文はこのやり方で解読できるようになっている。最近は社会人のビジネス英語を教えることが多かったので、大学受験生のクイズのような英語問題は面白い。

大学で人間の脳の第二言語の習得の過程を学んだ私の観点からすれば、大学受験生に限らず、言語学習は、途切れさせないことが大切である。通常の日本語話者であれば、第二言語は必ず習得できる。人の脳は必要あらば、「第二言語を習得せざるを得ないように」できている。

中高で6年間英語を学習した後(今はさらに小学校からも少しずつ)、さらに何年も英会話レッスンに通ってもできるようにならなかった、という話はとても多く耳にするけれど、そういう場合は必ず途切れている期間がある。途切れがちだから、一度学習した後に次の学習期までには学んだことがリセットされてしまい、また1から始めないといけなくなり、それを繰り返すうちに、同じことの繰り返しでつまらない、自分には向いていないのだ、と諦めてしまうケースが多い。時間がなくて学習時間を取れないという場合は、他に優先事項があるのだから仕方がないけれど。

語学力をグラフ化すると、まっすぐな線ではなくて階段上に上がっていくので、成果が目に見えない時期があるのは構造上当然のこと。それでも続けていたら必ず伸びていく。諦めや飽きを引き起こさないのも講師のスキルだけれど、これがなかなか難しい。(書いていて気づいたけど、階段上に変化するのって、スポーツも歌も楽器の習得もダイエットも愛を育むのも!全てだいたい階段上なんじゃ?構造的な欠陥がある場合は別として、忍耐力と続けることに飽きない気持ちがあれば、だいたいのことは実現できるのではと思った次第。急がば回れ案件ばかり。おお神はわれわれを何かを反復し習得するように作りたもうた!)

また、第一言語習得に文法は必要ないけれども、第二言語習得の過程では、文法は基本的には必須になる。言語学によると、第二言語の語学力は、第一言語を使ってどこまで第二言語の体系を相対化し、把握できるか、にかかっている。第二言語として学術やビジネスレベルの英語を流暢に扱う人の中で、最低限の文法理解のない人にはただのひとりも出会ったことがない。これには人の脳がどう言語を習得していくか、に関係している。生来の環境に依拠するバイリンガルでない限り、第一言語と第二言語は別の習得の過程を辿っていく。第一言語の習得は、言語能力ゼロの赤ちゃんが言語という概念そのものを身につけていく過程。第二言語の習得時には既に言語という概念自体は脳の中に存在しているので、同じ過程を辿ることは機能上できない。

長い話を短くすると、文法は敵ではありません、大いなる味方です。

続く…